
ルイーゼロッテとケストナーの想い
エーリヒ・ケストナーは、ドイツを代表する児童文学者でありながら、第二次世界大戦中は、平和主義者であるためにナチスの迫害を受け、執筆を禁じられていました。戦争が終わり、長い沈黙を破った後で発表されたのが、この「ふたりのロッテ」だったのです。
"両親の離婚"を扱った児童文学な当時としてはきわめて珍しいものでしたが、この作品には両親の和解を願って奮闘する二人の少女の姿に、平和を願うケストナ―の世界観が反映されているといえます。
ファミリー・ミュージカル『ふたりのロッテ』が、世代を越えて多くの人に愛される理由も、この点にあると言えるでしょう。
ベルリンの青春
エーリヒ・ケストナーは1899年、ドイツの古都ドレスデンに生まれました。
父エミールはまじめな皮革職人、母イーダも内職で家計を支える働き者でしたが、実はケストナーはエミールの実の子ではなく、母イーダとツィンマーマンという医師との間に生まれた不倫の子どもでした。
しかもこのツィンマーマンはユダヤ人であり、ケストナーはユダヤ人との混血という出生の秘密を抱えたまま、生涯をドイツで過ごしたのでした。不倫の子を産んだ母イーダは、その罪悪感から、ケストナーが生まれてからは完璧な母親になろうと努力し、ケストナーも母親の期待に応えようと、優しく正義感の強い子どもに育ちます。
第一次大戦では士官候補生として訓練を受けながらも、結局前線に送られず、ドイツ敗戦の時を迎えます。1918年、ドイツ革命。古色蒼然としたドイツ帝国は消滅し、当時世界でもっとも民主的と言われたワイマール共和国が誕生します。その後ナチスが政権を奮取するまでのワイマール時代は、政治的経済的混乱を繰り返しながらも、ドイツ文化があらゆる分野で花開いた、文化の黄金期でもありました。ケストナーも、そんな時代に青春を過ごした一人です。「自分の体には優秀な血がまじっているんだ」。それは、ライブツィヒで大学生活を始めた彼の心の支えでもありました。卒業後は大学で研究を続けながら新聞社にも勤め始め、小説、詩、評論、脚本と、多方面でその文才を発揮するようになります。27年にベルリンへ移り、2年後の29年に『エミエールと探偵たち』を刊行。
その大成功によって一躍時の人となったケストナーは、『点子ちゃんとアントン』『飛ぶ教室』などのヒット作を連打。≪我が人生最良の時≫を謳歌します。
しかし、33年にヒトラーが首相になると、反ナチたちの本は燃やされ、ケストナーも執筆を禁止されるようになります。