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オペラ座の怪人を生んだ匠たち その1

『オペラ座の怪人』が多くの人に愛される理由のひとつに、作品のクオリティの高さが挙げられます。 トニー賞の7部門に輝いた不朽の名作。
そこに息づく楽曲、振付、美術のマエストロたちの人物像と仕事に、焦点を当ててみましょう。

  • フランス文学の奇才 ガストン・ルルー
  • ミュージカルの神様 アンドリュー・ロイド=ウェバー
  • フランス文学の奇才 ガストン・ルルー

    ガストン・ルルーは、1868年にパリで生まれました。
    大学卒業後、弁護士の助手を経て、新聞社の特派員として中東やロシアの戦地などにも飛んだ後、小説家として人気を博したという異色の経歴の持ち主です。

    主に推理小説や怪奇小説を得意としていたと言われていますが、ほかにもSF、ファンタジー、歴史物、政治小説など幅広いジャンルの作品を手がけ、著作の多くは、新聞に掲載されていました。

    文豪ディケンズやコナン・ドイルを好んで読んだルルーは推理小説に興味を持ち、また触発されて1907年に、推理小説「黄色い部屋の秘密」を新聞紙上で連載。この作品は、密室トリック物の草分けとして現在も高く評価されており、日本の江戸川乱歩もアンケートで1位に挙げたほどです。

    パリっ子のルルーは、オペラ・ガルニエの地下に眠っている貯水湖からインスピレーションを得て「オペラ座の怪人」を執筆し、1910年に発表。たちまち大評判となりました。
    もっともこの時点でこの作品の中には恋愛モノとしての要素はなく、生粋の怪奇小説。後に古本屋でたまたま本を手にした作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーがラブストーリーとしてのエッセンスを加えたと言われています。

    何度も映画やミュージカルで上演されるほど人々から愛され続けるこの小説。特にロイド=ウェバーの音楽によりミュージカル化された本作の述べ観客数は1億人を超えるほどのロングラン大ヒット作となっています。

  • ミュージカルの神様 アンドリュー・ロイド=ウェバー

    数々の大ヒットミュージカル曲などを手掛けてきた、イギリスが世界に誇る作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバー。彼は1948年イギリス・ロンドンで生まれ、父は作曲家、母はピアノ教師、弟はチェロ奏者という音楽一家に育ちました。
    オックスフォード大学のマグダレン・カレッジ在学中(当時17歳)に作詞家ティム・ライスと出会い、ミュージカル音楽を完成。ここから本格的にプロの作曲家としての道を歩み始めました。ジャンルを超えた楽曲センスはこの頃からすでに確立されていたと言われています。
    1971年『ジーザス・クライスト=スーパースター』が大成功を収め、人気と地位を確立。その後は78年『エビータ』、81年『キャッツ』、84年『スターライト・エクスプレス』など大ヒット作を続々と生み出してゆきます。

    『キャッツ』初演キャストだったサラ・ブライトマンと私生活でもパートナーになったウェバーは、86年に『オペラ座の怪人』を発表。今では世界180都市で上演され述べ観客数は1億4500万人を超えているこの作品。ウェバー自身も「偶然の出会いだった」と語るほど、原作がたまたま発掘され、ウェバーの手によって究極のラブストーリーとして新たな命を吹き込まれたのです。

    また彼はビジネスセンスにも長けていて、最も商業的に成功した作曲家としても有名。多くのヒットミュージカルの上演が続けられています。
    トニー賞やグラミー賞など数々の名誉ある賞を複数回受賞し、92年には芸術分野への貢献を認められてエリザベス女王からナイトの称号を与えられ、また97年には爵位も授けられています。
    『オペラ座の怪人』の中でファントムがクリスティーヌに曲を作るという、原作にはない設定を設けたことについて「愛する女性のために曲を創作するという行為が、とてつもなくロマンティックだと思ったんだ」と語ったウェバー。「ミュージカルの神様」「現代のモーツァルト」とも評される彼が生み出す繊細で耽美な音色は、恐らく彼自身の内面から溢れ出るものなのでしょう。

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