浅利鶴雄が在籍した1年と少し、それは築地小劇場にとって、うららかな春だった。1925年(大正14年)6月14日の創立1周年祝賀会はその象徴だろう。演出助手だった水品春樹の『小山内薫と築地小劇場』によれば、横浜の鶴見にあった花月園で小山内薫や山本安英が驢馬(ろば)に、田村秋子が豆汽車に乗って大はしゃぎした。東の宝塚と呼ばれた花月園は開園からおよそ10年、少女歌劇団もあった。鉄道が郊外へ伸び、新住民のための遊園地ができる近代社会の春でもあった。
築地小劇場はいまにいたるまで、前衛演劇や左翼演劇のとがったイメージで語られることが多い。けれど勢いづく政治的演劇にのみこまれ、演技の創造という初志がおろそかになる成り行きを思えば、生ぬるいと指弾された「春の季節」にこそ、豊かな可能性があったのではないだろうか。
多くの誤解を生んだ小山内の言葉に「歌舞伎を離れよ、伝統を無視せよ」「踊るな、動け」「歌うな、語れ」がある。伝統を切断する勇ましい言挙げながら、弟子の水品は新しい演技の入口を示したにすぎないと解いた。古劇『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』(近松門左衛門作)を現代化した舞台を例に評している。