小山内薫が臨終を迎えたのは1928年(昭和3年)12月25日夜、宴席でのことだった。享年47。
生来虚弱のうえ、さかのぼること8年前、映画『路上の霊魂』のロケ中に厳寒の軽井沢で倒れてから、とみに体調が悪かった。革命10周年のソ連に国賓(こくひん)として招かれたのは亡くなる1年前。寒さと忙しさがたたり、気管支カタルが悪化した。帰国後、2度卒倒。秘密にされていたが、肥大した心臓近くに動脈瘤(りゅう)があった。
その日の昼、縁戚の蘆原英了(あしはら えいりょう/のちの音楽・舞踊評論家)が四谷南寺町の小山内宅を訪ねている。主治医だった父の信之から、病状が切迫しているので盛んな外出を控えるよう言づけを頼まれたのである。小山内家は築地小劇場が開場した年(1924年)の秋、大阪から東京へ越してきていた。