この連載は浅利鶴雄とともに築地小劇場をはなれる。けれどその前にいましばらく、この劇場の運命をたどっておこう。すくすくと枝葉を伸ばすことができなかったその顛末(てんまつ)――。
1924年(大正13年)6月に開場する築地小劇場への攻撃は、当初からあった。大正は小説家が戯曲という新形式を盛んに用いた時代だが、その書き手たちと対立したのだ。急先鋒は同じ年の1月に発刊され、名作『路傍(ろぼう)の石』で知られる山本有三が編集をになった演劇新潮(第1次)である。なかでも冷淡だったのは、文藝春秋を創刊し文士を率いる菊池寛だった。開場前の談話会(6月号)で「つまり同人雑誌だね、あれは」と吐き捨てた。劇場を建てた土方与志が大学時代に演出を試みたときも、華族の道楽と新聞でこきおろしたくらいで、お坊ちゃんの演劇がはなから気に入らない。
小山内薫を取り巻く文壇、劇壇の冷たい空気もたたった。遊蕩児(ゆうとうじ)にして小説は通俗的、二代目市川左団次と興した自由劇場は長つづきせず、新機軸の土曜劇場も新劇場も、野望をいだいてはじめた映画も、みな成功しない。金に困っては周囲に迷惑をかけ、新興宗教に入れあげる人だった。歌舞伎にかえる左団次の栄光とは対照的で「また小山内が若い者を集めて、何をやらかすか」(浅野時一郎『私の築地小劇場』)と見切る雰囲気があった。